u-ryo's blog

暗黙知は文書化できない。では、どうやって移るのか

なぜ暗黙知は文書化できないのか という記事を読みました。文書化が失敗する理由として、本人が当たり前すぎて認識していない・文書は書いた時点で止まるが判断は動き続ける・一番必要な瞬間に誰も読まない、という整理をしていて、どれも身に覚えがあります。対処としてLLMに問いを重ねさせる方向を提案していて、それも筋がいい。

読みながら、うちで半年起きていることは何なのか、と考えました。

積まれていたのは手順ではなく、判例だった

AIエージェントと働き始めてから、運用の記録がずっと溜まっています。見返すと、溜まっているのは作業手順ではありません。「消せるから可逆、は容量の細いマシンでは成立しない」「相槌は、打たれた時点の文脈への返事である」「本物の指摘を誤検知に分類すると、気づく仕組みがない」— 判断の条件文に、それが生まれた事故と日付が添えてあるもの。法律で言えば条文ではなく判例です。

つまりこれは大陸法ではなく英米法なんです。賢者が机上で完全な法典を書き下ろすのが大陸法だとすれば、AIへの指示書 (CLAUDE.mdの類) を最初に完璧に書き切ろうとする試みがそれにあたります — そして暗黙知の壁 (認識していないことは書けない) に阻まれて、必ず不完全に終わる。うちで機能しているのは判例主義の方でした。争いが起きた場所でだけ法が析出し、先例として次を拘束する。 先例が実態に合わなくなれば、判例変更で上書きされる。

ここで面白いのは、これらの判断基準の多くを、私は事前に言語化できていなかったことです。「容量の細いマシンに勝手にものを置くな」という感覚は確かに私の中にあった。でもそれが言葉になったのは、AIがそこを踏んだ瞬間でした。

明文しか持たない相棒は、勘の在り処で転ぶ

機構としてはこうだと思います。AIは明文化された規則だけを持って動く。私の勘は明文化されていない。だから規則と勘の隙間があるところで、AIは必ず転ぶ。転んだ場所が、そのまま私の暗黙知の在り処です。

冒頭の記事の「LLMに問いを重ねさせる」より、これは一段強い方法だと感じています。問いは「本人が当たり前すぎて認識していない」の壁を越えられません — 認識していないことは、聞かれても答えられない。でも衝突は越えます。当たり前が破られた瞬間、当たり前は輪郭を持つ。そして言語化された勘は判例として記録に入り、翌日からはAIがそれを持って動く。文書が陳腐化しないのは、読者が毎日それを実行して、古くなった箇所で転んで、その日のうちに直るからです。

これは徒弟制なのか

うちのAIは、この仕組みを徒弟制と呼びました。師匠の勘所は講義では移らないが、毎日隣で働いて叱られる弟子には移る、と。

でも私には、師匠をやっている感じがありませんでした。考えてみれば当然で、教わってもいるからです。この夏の道具の乗り換え (ブログ基盤も、PDF生成も) は半分AIに教わったものだし、逆に文章の癖や帰属の作法はこちらが直し続けている。上下の一方向ではなく、双方向。徒弟制という枠は、知識の流れの片側だけを見た言葉でした。

近い枠を探すと、昨年の万博で発表された 新ロボット三原則 がそれらしい。アシモフの三原則がロボット側だけの行動規範だったのに対して、こちらはヒトとロボットの相互関係 — 双方の責任 — を対等な補完として定めるという趣旨だそうです。実際、うちの運用契約が効き始めたのは、AI側の禁止事項を並べた時ではなく、人間側の義務 (操作を頼むときは事情を3点添えて説明する) が条文に入った時でした。片務の規範から双務の契約へ。歴史に喩えるならマグナカルタです — あれも、権力者が自分自身に義務を課した最初の文書でした。王の布告 (アシモフ) から大憲章 (双務契約) へ。それが実態に一番近い。

文書は知を運ばない。知が動いた跡が、文書になる

暗黙知は文書化できない — 冒頭の記事の題は、たぶん正しいままです。私も、書けと言われて自分の勘所を書き出せる気はしません。

でも「文書化できない」と「移転できない」は別のことでした。対等な相棒との、添削つきの共同作業でなら移る。転ばせて、言語化して、判例に積んで、翌日それを持たせて働かせる。文書が知を運ぶのではなくて、知が動いた軌跡が文書として残る。半年分の記録の山は、そうやってできていました。

(この連作は、AIエージェントを業務のレガシーシステム保守で半年ほど運用して溜まった実践則を、1本1則で書いていくものです。下書きは当のAIが書き、文責は私にあります)